vol.4 Chifumi Fujisawa

コーナー初の前編・後編でお送りしております、チフミさんのインタビュー。前編では、Riot Grrrlバンド・P-heavy結成までの自身の音楽の流れやスタイル出まくりな学生時代の遊び方などのお話を溢れんばかりの文字数でお届けしました。90’sの松本 / アメリカのmood漂うワード達に、その時代に青春を過ごしていなくともグッときた方も多いはず。未読の方はぜひ!今回の後編では、彼女が強く持っているフェミニズムという思想により注目。様々な社会運動が目立ってムーブメントを起こしている2015年の日本において、あらためて女性の権利について考えるきっかけになるかもしれません。このインタビューを読んで興味をもたれた方は、ぜひ彼女の関わるライブイベントにも遊びに行ってみてくださいね!

インタビュー by ヨシザキマナミ タイトル文字©フルショウカザホ

新宿3丁目にあるアナーキストのインフォショップIRREGULAR RHYTHM ASYLUM(イレギュラー・リズム・アサイラム、以下IRA)が発行していたPUNK ZINEEXPANSION OF LIFEの第13号(2004年11月発行)。巻頭のINTERNATIONAL WOMEN’S DAY 2004報告のページの次に、チフミさんのバンドP-heavyと盟友バンドであったN16のインタビューが掲載されています。

このZINEの制作者と知り合ったきっかけは、P-heavyでライブをやってるうちに外国人がよく遊びにきてくれるようになった、その一人のKeishaがNY出身でEVOLUTIONARY GIRLS CLUB(エボリューショナリーガールズクラブ)という女の子のフェミニズムを主体としたビジュアルアートのチームに所属してたの。その展示とショーを日本でやりたいって言うので、じゃあバンドとコラボしてやろうかって話していて。丁度同じ時期に、地元のアナーキストの人達からも「ライオットガール・ムーブメントの先導者であるバンドBIKINI KILLの前座もやったメンバーが在籍するThe HAPPENINGってバンドを呼びたいから対バンしてほしい」って話があったの。どちらも日にちが近かったし、フェミニズムなど思想も共感しあえる部分があると思ったから皆で一緒にやったらどうかな?って企画して、ピカデリーホール前の公民館を借りてイベントを開催しました。P-heavyはそこで初めてアナーキストパンクの人達と一緒に共同企画をしたの。その時にDIYパンクやハードコアのレコードやZINEを持ってきてくれたのがこのZINEを作っていたカスミちゃんで、のちにこの号でインタビューしてもらったんだ。
イベントは、コンセプトがフェミニズムアートだったのに近所の人も沢山遊びに来てくれて、パンクの人達も皆「松本面白い~!」って喜んでくれた。わたしたちのやり方をみて、こういう外に開けた感じでも面白いんだっていうのが伝わったみたい。ジャンルは違っても共感できるところはすごくあったし、意見交換もしてました。
このインフォショップは今でもあるよ。世界中のアナーキストがIRAめがけてくるの。活動家、アクティビストに限らずパンクスや様々なオルタナティブな活動に興味がある人が日本に来る時に情報を求めて必ず立ち寄る場所なんです。

ー この“カマン”というコーナーは、チフミさんが教えてくれたフェミニズムの思想の上にたってる、というか乗っかってるみたいな感じで。女の人に注目していこう、というのは、実はそこから始まっているんです。

フェミニズムについて常に意識して考えて生きているって、やっぱりすごく葛藤があるんだよね。否定されることもあるし、でも自分で確認して「やっぱり!」って思ったり。めちゃめちゃ戦って疲れてた時期もあるけど、今は本当にまっさら。思想をぶちこわした状態だけど、そんな時期も必要かなって。基本的には「女の子はなにをやってもいいしなんでもできる!」って思う。そういう思想との出会いで、知ったというよりは確かめたという感じ。
私のお母さんが寿司職人なの。昔は今よりもっと男性の仕事とされていた職業だったから、お客さんでもおもしろがってくる人、つっかかってくる人、色々いた。「なんで女の人だからって弱く見えるんだろう?」「なんで色々言われるの?認められないの?」って子供のときからずっと社会にそういう疑問があって。それで、「男の人はこうだ、女の人はこうだ」っていう拘束された考え方からどうしたら抜け出せるのかな?って思ってた。
でもそんな時にライオットガール達が「今、女の型に革命を!」と声をあげていて、男とか女とか関係なく本当にいい音楽をやっている素晴らしいバンドが世に出てきたりして、すごく希望を持てたというか、救われたと思ったの。
最初はフェミニストっていう言葉に抵抗があったんだけど、The Crabs(P-heavy結成のきっかけとなったバンド)のジョンが「僕はフェミニストだよ」と言ったの。それで、胸はって女性や自分自身を認めたり、声をあげてもいいんだなって確認できたっていうか。自分と同じように、女性の権利に対してフラストレーションを抱えている人が男女問わず世界中にいるんだって知って安心した。男性のフェミニストに初めて会ってやっと、問題は女性のものだけではないと気がついて、みんなと協力し合えてからこそ解決すると気付いた。笑

ー 先に経験して感じていて、言葉が入ってきて安心したんですね。

それを教えてくれたのが90’sのアメリカから出て来たRiot Grrrlのバンド。日本ではそういうバンドがあまり居なかったから。人権問題、性差別…全部ひっくるめた沢山の社会問題に対して女の子たちが音楽を通して力をもって声をあげられるようになった。それに賛同する若者たちが沢山いて、Riot Grrrlのムーブメントが起きたの。うらやましかったな。
私達がThe Crabsのライブを初めて観た時の感動と一緒で、P-heavyのライブを観て「下手でも、可愛さを売りにしなくても、わたしにも何かできるかも!」って女の子たちが思ってくれたらすごく嬉しいなって考えてた。たとえ音楽じゃなくても、何やってもいいんだ!って思ってくれたらいいなって。
やってても苦しいときもあったよ、意味あるのかな?とかって。ただ単純に繋がれて面白いから、好きなバンドの前座できるからとか、そういうのが楽しくて続けてたけど。22歳から~32歳位の10年間はとにかくバンド漬け。アメリカのバンドがとにかく来松しまくってて、CRAZY RHYTHMには毎回のようにOGRE YOU ASSHOLEと共に出させてもらってた。

ー バンド活動で強く思い出に残ってる出来事ってありますか?

一番はP-heavy初の海外公演。結成10年目、2008年の韓国でのライブ。メンバーのマサコが結婚したりして、そろそろバンドやめようって決めてた時期に、IRAで私達のCDを買って聴いてくれたパクさんってソウルのオーガナイザーが韓国に呼びたいと連絡くれたの。嬉しかったよ~。バンド休止前の集大成として「経験をしたいから韓国いってみようよ」って事になり、P-heavyのリミックスアルバムを作ってくれたsmooth3(現THE LOST CLUB)の山口君もDJとして一緒に韓国へ向かいました。
当時は韓国のインディーシーンが根付く前で、パク君が一生懸命やろうとしてたとき。彼の企画ではP-heavyが初めての日本人バンドだった。不安はあるだろうけどやってみようよ!ってパク君を励ましながら…。笑 弘大(ボンデ)地区のサムジーというライブハウスで、対バンは今では日本でもすごく人気のある韓国のバンドたち。
いざライブが始まったら、パク君が「沢山人がくる!」ってビックリしてたくらい。お客さんが10、20人くらい来れば良かった頃のシーンで、なんと100人以上きてめっちゃ盛り上がったの。P-heavy史上の中でも一番くらいの集客、伝説のライブだった。奇跡が起きたの。女の子が最前列にワアーっときて、韓国の女の子たちに「わたしも音楽やってて…」とかって話しかけられて。長年女の子のそういうのが聞きたかったの、その夢が韓国で叶った瞬間だった!
韓国って歴史上、日本との関係がよくなかったからもちろん不安はあったよ。わたしたちが行く10年前とかは日本の音楽を聴いちゃいけなかった国。受け入れてもらえるかな?ってすごく賭けだったの。
もしかしたら日本人ってことで反感を買うかもしれない、しかも女の子じゃん。韓国ではインディーミュージック的な文化がメインとしてあまりないときだったから、ドキドキしてて…でもいざライブをやったらめちゃめちゃ凄い反響があってビックリした。パク君たちのソウルのシーンにとっても、日本から行った私達にとっても衝撃的な出来事だったね。
そのライブ以降、韓国とすごくつながりができた。そこからパク君は日本人のバンドを沢山呼ぶようになって、今では知らない人はいないくらいの名オーガナイザー。今でもお互いサポートしあっていて。パク君は10月にギブミーに来るよ、韓国のミュージシャンを連れてくるよ。Sweet Dreamsっていつも一緒に企画してるレーベルがあって、そこが出してる本に韓国ツアー日記を書いてある。ミュージシャンのツアー日記が沢山で面白いので、読んでみてください。
もうバンド活動やめるって決めた後のソウルでのライブだったけど、凄い体験だったな。ライブのあと、ホテルでメンバーの3人で話していて、改めて「バンドやっててよかったね」って言ったらドアをノックするトントン、って音がしたの。「これ天使じゃない?」って。天使が通るときって音がするっていうでしょ?ドアの外には誰もいなかったんだけど、3人ともその音を聴いたから、「ああ天使だね」って。

ー それが皆しっくりきて理解できるくらいの出来事だったんですね。

結果がわかりやすく現実化したっていうかね。長年バンドやってて悩むときもあったけど、韓国でやったたった1日のライブで「私達これだけやってきたじゃん!」っていうのを見せてもらった。まさかの韓国の地で、それを実現してもらったの。

ー チフミさんは着実な、ブレない自信がありますよね。それはやっぱり人脈だったり蓄えたスキルだったり…経験ですよね。

そう。コミュニケーションをとりたいから、アメリカの音楽事情を知りたいから、英語を話せるようになって。話せるようになったらアーティスト達のケアができるようになって、ライブやって、うち泊まって、寿司食べて、見送るところまでやって。いつもくたくただったけど、好きなミュージシャンばかりだったから楽しかったな。あと2010年に、DOMMUNEで大好きなスリーターキニーのVo.コリンタッカーと対談したのも思い出。
ライオットガール20周年の番組で、それについて日本で話せる人ってことで呼ばれたの。全部がやっぱり一人じゃできないこと。出会いや人とのつながりを大切にしてるから、続けれていることだし。自分も信じて人を信じることって中々難しいけど、何度も学ばされるわけじゃん。何度もお試しがきて。その中で、自分はブレないところがあったりとか、やっぱり信じよう!ってとこに戻れたりね。

ー 導かれてますね。

出会う人、キーパーソンが沢山いるんだけど、不思議なことにその人達が忘れた頃に何度もでてきて。日本人だけじゃないし、そういう人達が世界中を移動してるんだけど、ここ!って時には必ずいるんだよね。10年以上前に出会ったあの人が、こういうことの為にいてくれたんだな~とか。バンドを通して様々なことにトライしたことはものすごい価値があった。はじまりなんだと思うし、やり方は時代が変わってきてるからいろいろあるんだと思うの。でもまた何年後かに、「あの時こうだったから導かれたんだね」ってことが起こるのはわかってる。

vol.4 Chifumi Fujisawa 2019.4.11

vol.4 Chifumi Fujisawa

marsmoo vol.4ということで、このコーナーも4回目に。クラブ色が強かった前回までの3組のゲスト陣から打って変わって、今回は長年に渡り松本インディー・ロックシーンを支える女性、チフミさんにインタビューさせて頂きました。伝説のライオットガールバンドP-heavyのメンバーであり、松本きってのフェミニスト。様々な固定観念の集合体であるmarsmoo tooの根底に流れる、“フェミニズム”の精神(女性の権利を主張し、男女は政治的、経済的、そして社会的に平等であるべきであるという信念)を私達に伝授してくれたお姉さんでもあります。例によって音楽ルーツをお伺いしていったところ、聞いているだけでお腹いっぱいな話のボリュームと歴史の濃さでしたので、コーナー初の前後編で、2号に渡ってお届けしてみたいと思います。

— 音楽に興味をもった最初のきっかけってどんな感じでしたか?

子供のときがアイドル全盛期で、TVでザ・ベストテンを観て新曲を覚えて、いつも次の日には歌ってた。女子のアイドルが大好きで歌マネしてたね。それで中学になってバンドブームがきて、TVっ子だったのでいかすバンド天国(=イカ天)・夢で逢えたらを観まくってた。そのバンドブームの中でも自分が本当に好きになるのってあまり売れてないバンドで。あまり知られてないけどめちゃくちゃ格好いい!みたいな、インディーズ意識みたいなのが当時から芽生えてたのかも。特に好きだったバンドがメスカリン・ドライヴ、ニューエスト・モデル、The ピーズ。メスカリン・ドライヴはオールガールバンドで、この頃からガールズバンドが気になりだしていて。こっそり音源を探して聴いていましたね。

— 当時って音源とかってどうやって手に入れていたんですか?

パチパチとか宝島の雑誌、あとは当時渚にあった電気屋、片隅にCDを売ってる小さいスペースがあって。そこが結構レアなインディーズのCDを売ってたりしたの。レンタルCD屋にはあまりいいバンドが置いてなかったから、主にそこに通って買ってたかな。今ラボラトリオがあるあの辺にもレンタルCD屋があって通ってた。
そこからまあちょっと…とにかく変な音楽が聴きたいんだけど、なかなかCDが見つけられないみたいなもどかしさがありつつ、海外のボーイズBAND、洋楽もかっこいいかも!みたいになってきてて。Olive少女だったから、Oliveで紹介されてる音楽を片っ端からチェックしてた時にフリッパーズ・ギターが出てきて衝撃を受けて。勿論フリッパーズ・ギターも格好よかったんだけど、彼らが影響を受けたUKのネオアコのバンドとかを聴きだしたの。
中学の終わりから、松本の年上の大人の人達が気になりだして。
街中でチラチラ、「あの人かっこいいな」とか見てね。昔は服装だけでかっこいい人が一発でわかったから、そういう人がいる洋服屋さんに、買えないけど行ってみたり。当時あったDO!familyって服のブランドの路面店に通うようになってそこのお姉さんが今もお世話になっているキミちゃん(現salon as salon店主)で、話をするようになって、可愛がってもらうようになったの。
洋楽をいっぱい聴きたいけどお金がなくて買えなかったから、レコードを沢山持ってるキミちゃんたちによくカセットテープでミックステープを作ってもらった。それで大人が聴いてるUKの格好いいやつを聴けたり、自分で音源買えるやつは買ったりしてて。
その頃、PARCOの目の前にレッツっていうショッピングモールがあって中にCDプラザというCD屋さんがあった。当時松本では唯一輸入盤を扱ってるお店だったの。高校のときによく通っていて、そこのヨーコさんっていうお姉さんがめっちゃ音楽詳しくて、80~90年代のUKの音楽はヨーコさんに教えてもらいながら自分でも好きなバンド見つけていってレコード買ったりとかしてたね~。

ー へ~!高校生活はどんな感じでしたか?

高校生活は学校に全然友達がいなくって、年上の大人の友達がいっぱいいた。あと他校のちょっと面白い女の子達とか、信大の人文学部の変な人達とか…音楽好きで頭のおかしいような人達とばっかり遊んでいて。
同じ趣味をもってる人を探すために必死だった。たとえばミスタードーナツでお茶してて、CDプラザの袋を持ってる人がいると「あのひと何買ったんだろう?」って気になって話しかけたり。それで「貸してあげるよ~」って言ってくれて友達になったりとかして。
のちにP-heavyというバンドを組むことになる幼馴染のナミちゃんはその頃からいっつも一緒に音楽を追っかけるパートナーだった。当時ってムーブメントがいっぱいあったから、常に「次あれがくるらしいよ!聴いてみる?」って感じで。高校1年生のそんな頃に、ヨーコさんがパーティーを始めたの。小町堂っていう、今の邦心らーめんらへんにあるレストランで、10~15人くらいの小さいパーティー。もちろん機材設備もないし、持ち込むのも大変だから、ヨーコさんが作ったミックステープを流してみんなでお酒のんで踊って。そのパーティーに遊びにきてたのがOGRE YOU ASSHOLEのBa.清水さん、Candle JUNEさん、今パリで画家やってるエッちゃん(ETSUKO KOBAYASHIさん)、Maher Shalal Hash Bazのサックスプレイヤーの人、NYで活躍してるハードニップスってバンドのナカムラヒトミちゃんとか、皆今もそれぞれ活動している人達。その時期に出会った大人達が今の私の基礎をつくったの。今でも付き合いがある人も多いし。大人に混じって、すごく色々な世界を見せてもらった。
エッちゃん、ナミちゃん、あともう一人マリちゃんって子と私でチェルシーガールズっていう活動はあまりしない架空のバンドもやってたよ。フリーペーパー作って、嘘のライブ予定を書いたり。バンドとしては幻的に信大の大学祭ビニールハウスでのライブで一回だけ、イギリスのアーティストのカバーを一曲やっただけ。エッちゃんがすごくアーティストだから色々仕掛けて、サルバドール・ダリの作品の真似をしてフランスパンを頭に載せて皆でパレードしたり。笑
そういう奇想天外な遊びに時間を費やしてた。

ー すごい!架空のライブ告知って、気持ちすごくわかります。それを実際にやってたとは…地元松本で特に通ってた遊び場とかってありますか?

…そういうのはあまりなかったかなぁ…信大のキャンパスとか、信大の子の家に遊びに行くことが多かった。みんなでご飯食べながら、誰かが新しく買った曲を聴いて、オタク同士で話してたね。

大学生に借りたレコードをカセットテープにコピーしたり。高2の時、渋谷クアトロにUKのHEAVENLYっていうバンドを観に行った。そのときが初めて東京にライブを観に行ったとき。エッちゃんがちょっと英語もできたから、エッちゃんについていったって感じ。そのあともフリッパーズ・ギター解散後には小山田くんのDJを観に行ったりして。当時はIDチェックがなくて、YELLOWのオールナイトのパーティーも入れたよ。そこで東京の女の子と友達になって、学校休んでその子の東京の家に転がり込んだりとか…

— 濃い高校時代ですね~。岡崎京子の漫画に出てくる女の子みたい。そして卒業してからも地元に残って。

高校卒業後は、新星堂っていう松本に2店舗あったチェーンのCD屋で働いてた。新しい音楽もチェックできるしね。その頃ってCDショップの試聴機が新しい音楽の一番の情報源ですごい重要だったんだけど、洋楽担当になって試聴機をまかされたの。そこでいつもマニアックなのばっかりいれてたら、仕事でお店に来るレコード会社のメーカーさんに気づかれて。
メーカーさんが「松本に面白い子いるよ」って言ってくれて、段々知られていって…諏訪のマキノさん(ライブイベントCRAZY RHYTHMS主催者)に話がいって、それを更にマキノさんの所に通っていたUSYN、ユーキャン達が聞きつけて私の試聴機を聴くために毎週末松本に来るようになった。それくらい当時は試聴機がすべてだったの。
それでしばらくしてUSYN達と友達になって、「信大の面白い人達を紹介するよ!」って遊ぶようになって。そこからUSYNや勝浦君(OGRE YOU ASSHOLE)達とエスケープベロシティってバンドを組んだり、Smooth3って信大で伝説のバンドを組んでいた山口君(The Lost Club)と一時的にバンドを組んでグラスゴーのバンドThe Vaselinesのコピーしたり。私は楽器ができなかったからサイドボーカルだったんだけど。でもそのバンド達は一瞬で自然消滅していくの…笑
ちなみに、2013年にALECXでThe Vaselinesの来日ツアーの企画をやったの。昔そうやって憧れていた人達と、のちに仕事できるようになったっていう!
19歳のときにはフランスに3ヶ月間、エッちゃんナミちゃんと行ったよ。語学留学だったんだけど、元々学校嫌いだからちゃんと通えなくて。いつも週末になるとインディーロックのパーティーに通い詰めた。イギリス近いからイギリス人もくるし。来日公演のチケットが高いアーティストもあっちなら1,000円とかで観れるし、ライブも観まくってた。留学に行ったっていうより、とにかく夜遊びしてたね〜。
そのあと松本で普通に働いてるときも、数々のバンドにちょろっと参加したりしながら、ヨーコさんを筆頭に来日公演を月3くらいで観にでかけてたな~。
そして、1998年に、わたし的事件があるんだけど。

— チフミさん事件!

アメリカのワシントン州オリンピアのK Recordsっていうインディー・レコードレーベルのThe Crabsっていうバンドがマキノさん主催のCRAZY RHYTHMSでポアゾン(現SONIC)に来日ツアーで来たの。それまでバンドっていったら、キマってて演奏がすごく上手くてってイメージだったんだけどThe Crabsは女の子が2人いて、演奏中メンバー皆がすごく楽しそうだった。とにかく楽しげで、こんなの初めて!みたいな感じですごく感化されたの。当時は英語が分からなかったからフランス語で話しかけて、色々質問して。それがきっかけでオリンピアっていう小さい町のことが好きになった。The Crabsを観て、「私にもできるかも!」って思ったの。今まで男の子のバンドにお飾り程度で入ってたけど、「自分たちがメインでできるかも。自信をもってやらなきゃ!」って。そのライブの時にメンバーのSarah Dougherが「ここにはガールバンドがいないのね」ってぽろっと言ったの。アメリカでライオットガールのムーブメントがあった時期の後で「女の子がレボリューションを起こせ!」みたいな流れがきてた時だったから。「たしかに松本にはガールバンドがいないな」って思って、「じゃあ私くむ!」ってSarahたちに宣言して。「今度私達が日本に来るときは、あなたたちが前座をして」って言われて、そのライブのすぐ後にバンドを組んだ。それがP-heavy。ナミちゃんがギター、あと新星堂にお客さんで来ていたマサコと私がドラム、ギターを交代で。自分が書いた曲は自分でボーカルをやるっていう決まりで、編成を曲ごとに変えて。

— そうして伝説のガールズバンド・P-heavyが誕生したんですね。P-heavyにベースがいないのはなぜですか?

今までで一番影響を受けた大好きなバンドSleater-Kinneyがベースレスだったから、それに憧れて。3人でバンド組もう!って決めて、まだ全員がなにも楽器ができない頃、丁度Sleater-Kinneyの来日ライブが新宿LOFTであったの。だから「全員で観に行ってそれでバンド始めようよ、Sleater-Kinneyにバンド名考えてもらおうよ~!」って盛り上がって。終演後に話しかけて、バンド名決めて!ってお願いしたんだけど「バンド名はすごい大事だからメンバーで決めたほうがいいよ」ってアドバイスされて、そうですねってなったり。笑
色々なアーティストの来日ツアーに遊びに行ってそこでZINEを作ってる子や、ライオットガールのムーブメントに興味のある子に出会ったり友達がどんどんできた。P-heavyを結成する全然前に、エスケープベロシティで海外バンドの前座の機会があって私はそのときに初めてちゃんとバンドのメンバーとしてライブをやったんだけど、そのときにすごく自尊心が高まったっていうか、自分がやってることに自信がでてきて。
私は元々根暗だったけど、そういう日陰にいるような女の子でもステージに立つことができるし、なんでもできるんだっていう意識が芽生えてきて。だからちょっと自信がなさそうな女の子もバンドに誘って、みんなでバンドやったら絶対楽しいよ!って考えるようになって。とにかく女の子たちと色々共感したかったの。それが「バンドをやりたい!」って強く思うようになるきっかけだった。そしてP-heavyを作るきっかけになった事件から一年後の1999年に、またThe Crabsが来日して、松本で約束のライブが出来たんだ!
一年前には何もできなかったのに、前座をするようなガールバンドを本当に作って、必死で勉強した英語でコミュニケーションもとれるようになっていて。それですごい褒めてもらったの。きっかけを与えてくれたSarahが、P-heavyを初めてバンドとしてきちんと認めてくれた人。そのライブの時は不慣れで音もとまっちゃったりしたんだけど、認めてもらえて、もっと頑張ろう!って思わせてもらった。

— 物凄い感動体験ですね。

本当にそう。人生変えちゃったくらいの。そこから10年くらい同じメンバーでP-heavyをやり続けて…。とにかく全部楽しんでやってた。自然にできる人とのつながりとか、当時はそういうものがすごく面白かったな。

COME ON! vol.4 Chifumi Fujisawa 2019.4.10

vol.3 a-KO and BOBY

毎度大好評いただいておりますこのコーナー。前回のDJ・Sumikaさんのインタビューは、話に登場したHIPHOPなアーティストやタイトル、ジャケの写真たちに「わかる〜!私もこれ超聴いてた〜!!」とキュンキュンきちゃった同世代の方も多かったのではないでしょうか。今回のゲストはSabbat(サバト)をメインに活躍するDJのA-KOさん、BABYさん。お二人ともDrum&Bass/Dubstepなどのベースミュージックを普段プレイしている“重低音女子”ということで、このコーナー初の2人ゲスト(エイピー&ベイビー)で、それぞれの音楽人生についてお伺いしました〜。
— 松本の男前女子DJsのおふたり、よろしくお願いいたします!今回、“なんでそのジャンルに至ったのかが気になる女子DJs”、という事で勝手にペアでお呼びさせていただきました。おふたりが出会ったのはいつ頃ですか?

A-KOさん(以下A):2008年頃の、じゅんこちゃん、PAAN 愛ちゃん、DJ RIEさん達がやってたガールズパーティー松本大奥@Sink Or Swim 18(当時は女鳥羽川沿いにあった)のミーティングが出会いだよね。女の子が十数人いて、たまたまベイビーと隣の席だった。話してみるとカワイイ妹みたいで、すっかりファンになってしまった。

BABYさん(以下B):ミキさんにフライヤー作ってもらってたパーティーすね。エピソードがあって、松本大奥から帰る時、駐車券をなくした事があって、A-KOが一緒に雪の中一生懸命探してくれたんすよ。会ったばっかりだったけど、絶対仲良くなるなぁと確信しましたね。それから7年マイフレンド&マイ美容師さんです。

— ではベイビーさんから音楽のルーツについて訊いていきたいと思います。ベイビーさんは東京に行ってたんですよね?

B:高校を出て東京の専門学校へ進学しました。そのとき、渋谷の東口にあったアーリーズというレゲエバーでバイトをしていて。アーリーズにいる人達がとても濃くて皆すごく熱くて、音楽もその人達に教えてもらいました。そこの人達がデジタルダブとか、レゲエ、ニュールーツなんかをいつもかけてて、新宿OPEN(都内屈指のサウンドシステムを誇る老舗レゲエクラブ)で一緒に遊んでました。その頃に重低音に目覚めました。

それで22.23歳くらいで松本へ帰ってきて、中町にあったレゲエバーBIG UPで働いてました。
そこでレゲエの人達と仲良くなってDJを始めたり、AlecxでやってたJam Peace presents RIDDIM JAMのフライヤーを描いたりしてたっす。
けんちゃん(現Switch)に松本の音楽関係の人を皆紹介してもらったり… けんちゃんは料理の師匠でもあります。

音楽のジャンルとしては、A-KOとの出会いになった松本大奥のときからDubstepをかけていて、若干?浮いてました。

— ドープ女子ですね。ではA-KOさんのお話を… ドラムンベースに行き着くまでの流れを教えてください。

A:高校を出た頃はライブハウスに出入りしてたね。渚にあった音屋敷、島内にあったパンプキンヘッドとかで、首にタオル巻いて飛び跳ねてた。今とノリが全然違うよね。六九にあったTAKE STUDIOで働いてた潮と、そのときの友達たちとのちにLadys NigntというPartyをやる事になるんだけど。松本でも、当時バンドをやってた人達が今はそれぞれDJで活躍してるよ。

20代半ば、勤務先の美容室で「縁夜」というパーティーを是空でやったの。店の社長、スタッフの男性陣がDJをやり、私はヘアーショーをやらせてもらった。そのパーティーがきっかけで「DJをやってみたい!」と思うようになった。

それで20代後半になって、「Calm Place(※塩尻にあったヤジさんのお店)でイベントやらない?」って誘われて、女友達4人で「Ladys Nignt」っていうPartyを開催しました。当時、Alecxでやってた鼓動ってレゲエのイベントに遊びに行ったり、聴いたり、好きだったレゲエでDJデビューしたよ!

そのあとにベイビーと出会い、Dubstepかっこいいな〜って。「四つ打ちとかもやってみたい」とか思っていた時に、ASIAN DUB FOUNDATIONっていうダブ/レゲエ、ジャングル、ロックなどが融合した音楽のバンドを好きでよく聴いてたんだけど。ベイビーと車で彼らのCDを聴きながら「こういうの流してみたいんだよね〜」って言ったら、「ジャングルやればいいじゃん!」ってベイビーが言ってくれたの。そこからJungle、Drum&Bassにどんどんハマっていって。そのきっかけを与えてくれたのがベイビーだね。

更にはKAGAちゃん、CONFUSIONとの出会いがあって。CONFUSIONは2008年から始まったDrum&Bassのパーティーなんだけど、最初は遊びに行ってて。2年目からKAGAちゃんに声かけてもらって一緒にプレイするようになりました。今があるのはKAGAちゃんのおかげだと思ってる。凄く感謝してます!

— そしてお二人が現在やっているパーティーはBoNNie @ Sabbatですね。

A:そうですね!A-KO BABY SUMIKA の3人が主軸でやってるレディースパーティーです。年に3回、今年2年目です。

B:次回は9月に開催予定です。

— 前に来場特典で頂いたSUMIKAさんのセレクトCD、めちゃめちゃよかったです。BoNNie、これからも応援していきたいです〜!

B:是非!パーティーの楽しみ方はいろいろあると思いますが、自分はそのDJが好きでその音楽を好きになったり、好きな音楽の雰囲気が似ていてそのDJが気になったりすることが多いです。機械のランダム機能と違って、プレイヤーの気持ちが音楽で伝わるのが『DJ』で。そこを感じて楽しんでもらうのもおもしろいのではないかと思います。BoNNieも個性あふれる女DJで構成してますんで、ぜひあそびに来てくださいね!

A:いつも自分のとなりには音楽があって、それを通じて沢山の友達や仲間と出会う事が出来た。まだまだどんな広がりを見せるのか楽しみだし、みんなにも知ってもらいたいです。一緒にあそぼーよ!

A-KOさんのおすすめアーティスト
Marky
Sao Paulo,Brazila
/ London,UK
@djmarky
Ed Solo
Brighton,UK
@EdSolo
Logistics
Cambridge,UK
@LogisticsDNB
Makoto
Tokyo,Japan
@Makoto_MusicJP

COME ON! vol.3 a-KO and BOBY 2019.2.22

vol.2 Sumika Tanaka

marsmoo創刊号の中でも特に反響の大きかったこのコーナー。普段直接は聞けないような、パイセン女子の音楽ルーツにやはり皆さん興味津々なようで…第2回目は、前回の二木みきさんからご指名いただきました、Sumikaさん!松本・伊那を中心にDJとしてご活躍するSumikaさんの音楽ヒストリーをお伺いしました。

— 地元 伊那での小・中・高時代のお話から訊ければと…伊那でいつどんな出会いがあって、どうやって音楽に出会ったのか、気になります。

子供の頃からピアノを習っていたり金管バンドでスネアドラムをやっていたり、音楽は身近なものでした。小学校6年生の時に放送委員長になって、いつも学校で流れてた放送の曲を全部わたしが変えてみました。掃除の曲を「木星」に変えたりとか。

— ディスクジョッキーの始まりだ!いいエピですね、すごいお洒落。

中学校の頃は洋楽が大好きだったんだけど、当時LUNA SEAとかGLAYが流行っていて、まわりで洋楽を聴く子があんまりいませんでした。その頃は今みたいにインターネットが普及してなかったから、洋楽の情報はMTVかラジオか雑誌からでしか得られなかったのね。だから私の場合は毎週金曜の夜中3時頃にやってたラジオ番組〈COUNTDOWN UK〉をいつもラジカセで録音してました。ラジカセのタイマーが信用できず、3時に目覚ましで起きて、ガチャって録音ボタンを押して寝て、朝起きてそれを聴く、みたいなことを毎週してました。3時に起きれず録音できなかったときは一週間がっかりみたいな…。録ったのを無理矢理友達に聴かせたりとかしてました。英語は子供の頃から好きで、中3のときカナダへホームステイしたこともありました。その頃に好きで、今でも聴いてるのはJazzボーカリストのHolly Cole。他にもQueenのアルバム「世界に捧ぐ」とか、Mariah Careyの「Emotions」、Des’reeの「I ain’t movin」なども聴いてました。

— 高校のころはどんな風に過ごしていましたか?
英語が好きだったのでEnglish同好会の部長をしてました。英語のスピーチコンテストにも出て、入賞したのでオランダに3週間行きました。オランダでは同じようにホームステイをしに来たいろんな国の子供たちが集まる合宿に参加しました。そこにいたイスラエル人の男の子が好きでした。笑 たった3週間で。笑 オランダではErykah BaduのCDを買ったり。Des’reeの「Life」が流行っててみんなで大合唱したりしてたな、そういえば。初クラブもオランダで、その頃はユーロが流行ってました。Bengaboysの「We like to party!」が大盛り上がりでしたよ、当時からブラックミュージックが好きだったからちょっと期待はずれでしたけどね。その頃の思い出の曲はKeith Sweatの「Nobody」で、オランダにもCDを持って行ったくらい好きでした。あとは勿論TLCですね。LL Cool JとかMobb Deepとかも聴いてました。

— そして大学生に。
大学は神奈川だったんだけど、ある日友達を誘って渋谷の《VUENOS》っていうクラブに遊びに行きました。音的にはいわゆる“ウェッサイ”が流行っていたので、SnoopやDreでブチ上がりな時代でした。それが20歳くらいのときです。クラブで遊ぶっていうのはそこからが始まりでした。今は移転したけど当時の六本木《NUTS》にもよく行っていました。クラブに行く時はLB03のセットアップとか着てましたね。あとはタイに行ったときに髪の毛をコーンローにしてくれる露店があったので、日本に持ち帰り、そのままクラブへ、みたいなこともしてました。笑 バイトはナイキの靴屋さん。こうやって聞くとすごいB-Girlみたいに聞こえるけど、普段は普通の優しげな大学生でしたから。その頃はThe Rootsや、COMMONのアルバム「Like Water for Chocolate」をよく聴いてて、D’Angeloの「Voo Doo」がリリースされてMusiq soulchildが出てきて… とにかくフィラデルフィア人脈のアーティストが大好きでした。お父さんのレコードプレーヤーを勝手に持って行っていたので、レコードもよく買ってました。町田に住んでいたので《freaks》というレコード屋さんでよく散財してました。他に当時よく行ったレコード屋さんは今は亡き《Guinness records》や《CISCO》、移転前の《Jazzy Sport》などですね。“Jazzy Hip Hop”という言葉が出始めた頃でした。Five DeezとかFat Jonが流行ってましたね。

— 伊那に帰ってきたのはいつ頃ですか?
大学卒業後、東京で働いてしばらくして伊那の実家に戻りました。そのころにDJ機材一式を購入。伊那の《BAR-7 Cafe》で折橋さんと出会い、彼らのブラックミュージック中心のパーティー〈BLACK SUMMIT〉でDJをするようになりました。その後アメリカの会社に就職してインディアナへ。その頃はやっぱりJay Dee(J Dilla)が好きで、アメリカに居る頃に「The Shining」というアルバムが出て聴いてました。
アメリカから伊那に帰ってきて、〈BLACK SUMMIT〉でのDJも再開。プレイするのは伊那の旧《Gram House》が多かったです。その頃の選曲も今のスタイルとあまり変わらない感じで90’s Hio Hopが中心でした。〈BLACK SUMMIT〉は本当に良いパーティーです!松本ではたまに〈RECORD ROOM〉や〈FUNKY TECHNICIAN〉っていうパーティーに出させてもらいました。

— へ〜。松本にDEV LARGEさんが来た時もそのパーティーでしたよね〜。
30歳になった頃、《MOLE HALL》や《GNU》に通いだすようになって。そして結婚を機に安曇野に引っ越してきてました。松本でこんなにDJやるようになったのも、松本の皆と仲良くなったのもそれからです。

— 意外!ずっと松本に居るお姉さんなのかと思ってました。じゃあ皆、松本にでてきてからのSumikaさんのイメージが強いんだ。そこらへんのプライベートなお話はあとでサムギョプサルを食べながら詳しく伺うとして(このコーナーの取材は、marsmooにてインタビュー後、ゲストと一緒に街中に繰り出して韓国料理屋でサムギョプサルをいただく、という流れで定着しつつあります)、最後に最近お気に入りの曲を教えてください。
最近のお気に入りはGregory Porter「NO LOVE DYING」です。

— ありがとうございました!
(そしてこのあと、松本駅前の韓国料理屋・韓彩へ。最終的に皆で、コント集団海リリリが主催のクラブイベント<海ザンス>@MOLE HALLへ遊びに行きました。)

COME ON! vol.2 Sumika Tanaka 2019.2.22

vol.1 Miki Futatsugi

第1回目は、松本の踊る姐さんと言えばこの方、二木みきさん。
意外と訊かれないであろう「パーティーに通いだしたきっかけは?」という素朴な質問から、みきさんの音楽人生についてのお話を伺ってみました。

「最初は《ポアゾン(現SO NIC)》…?うそうそ、《大都会》に18・19歳の頃通ってた。
よくつるんでた有賀(GARUさん)たちがDJしてた《ミュートス》にも行ってた。
この3つのお店が私の松本での夜遊びの原点。

当時はチーマー時代で男の子達はみんな腰にチェーン、音楽はHIP HOP。
服屋の店員さんや美容師とか、ファッション最先端の子達がもっと遊んでた。

《SONIC》では何回か自分でHIP HOPのパーティーをやってた。呼びたいゲストがいたら自分でパーティーを開催するって感じで。
そのパーティーに出てもらうローカルの子を選ぶためにオーディションもしたりしてね…いま思えば何様だよって話。

24歳から働きだした《是空》は、週末はいつもパンパン。
ローカルDJだけでお客さん100人オーバーは当たり前。忙しかったけど、週末が来るのを毎週ワクワクしてた。

そんな頃、札幌出身の大将という人と是空で出会って。
大将に、誕生日プレゼントは何がいい?と聞かれ「札幌に連れてって!」とお願いして、当時の彼と一緒に札幌を案内してもらった。
そのときに出会った人達や連れていってもらったパーティー達が本当に最高で、札幌に引っ越そうとすぐ決意。
1年かけて貯金をして、28歳で札幌に移住した。

札幌では小箱や《Precious Hall》とか遊びにいってて。
自分もPARCOで働いてたし、お洒落なshopの店員さん達は皆よく遊んでた。
お客さんが帰りだした深い時間からパーティーへでかけ、踊り尽くしてフロアからそのまま出勤という生活。

いま大人になって思うことは、わたしたちが若い時は格好いい大人が沢山遊んでたな〜って事。
わたしたちが格好よく遊んでいれば、若い子たちも遊びたいと思ってくれるのかな〜。

面白そうだと思ったパーティーがあれば、松本に限らず行きたい。
いくつになってもフットワーク軽く遊んでたいね。
昨年の野外でいえば、横浜の“GREENROOM FESTIVAL”や、幕張の“StarFes.”が面白かったよ。
とにかくワクワクしたいわけよね〜。パーティーを楽しみに仕事頑張ったり、洋服買ったりさ。
この5月、《Sabbat》で期待度の高いパーティーがたて続けにあるから楽しみ!

(最近気になってる・グッときてる曲はありますか?という質問に)
ちょうどぴったりなのがあるよ〜。
こないだの“MOTION ONE”
@SabbatでROKUが朝かけたAbimaro & the Free の “Mark”

かっこいい曲があれば、DJブースまで行ってDJに訊いたり。
Mix CDだったら「何分頃のあの曲」って伝えて、教えてもらってます。
あえて楽曲検索アプリを使わずに、直接DJに質問して色々教えてもらうのも楽しいですよ。

松本女子たち、ゴリっと興奮気味に遊んでいきましょう!
come on!