祝祭的といってもいいほど気持ちよく晴れた日だった。分娩台の後方にある窓からは、美ヶ原の頂上に建つ鉄塔が輝いて見えた。無口で有能な女性産婦人科医が適切に指示を出す。助産師たちがあわただしく動きまわる。その中心で、君は声を上げた。三十七年の人生でいちばん大きな叫び声だ。でもそれは、苦痛にうめく者の叫びとはまったくちがうものだった。すっと立つ樹木のように芯のある、伸びやかな声。君は喉を開放し、いつものように身体を一本の楽器にした。そして歌った。分娩台の上で、腹の底から歌い続けた。次々と襲ってくる巨大な痛みを宙へ解き放ち、十か月のあいだ胎内で守ってきた小さな命を無事この世界へ送り出すために。
出産の一週間前の妊婦検診で、お腹の子の首にへその緒が巻きついていることを医師から告げられた君は、ある恐怖にとらわれていた。それはかつて体験したことのない恐怖だった。妊娠してからというもの、どれもこれもまったく新しい体験の連続だったのだけれど(つわりというものがあんなにも酷いものだったとは!)、その恐怖は別格だった。〈出産はとっても効果的なデトックス〉みたいなネット記事をいくら読んでも、それが払拭されることはなかった。それどころか、ますます大きくなるばかりだった。
出産中、私のへその緒が原因で、この子の身に何か起きてしまったら?
それが原因かはわからないのだけれど、君が三回目に深く大きくいきんだ直後、異変が起こった。お腹の子の心拍数が半分以下に下がってしまったのだ。分娩室の雰囲気ががらりと変わった。女性医師の表情がみるみる険しくなり、助産師たちは胎児の心拍数を計測するモニターを見つめながら息を飲んだ。緊迫した、重々しい空気があたりを包んだ。明らかに何か悪いことが起こっている。おそらく、とても悪いことが。
そのときだ。
危険を察知したのか、母としての本能なのか、君はお腹の子の名前を呼んだ。
彼女の名を、二度、力づよく呼び、言ったのだ。
「こっちだよ。出ておいで」
すると不思議なことに、お腹の子の心拍数が上がりはじめた。まるで君の呼びかけに答えるかのように、彼女の小さな鼓動がふたたび高らかに歌いだしたのだ。
数値が元の値にもどると、分娩室の雰囲気が柔らかくなった。医師も、助産師たちも、ほっと息をついて表情をゆるませた。なかには笑顔をうかべて声を上げる者もいた。君はといえば、額から大粒の汗を幾筋も流しながら歌い続けていた。娘の鼓動に和するように。それをしっかり守るように。
やがてショートカットの若い助産師が満面の笑みを浮かべ、君に向けて大きな声で叫んだ。豊かな黒髪に包まれた娘の頭が、この世界へ出てきはじめたのだ。
数分後、産声が分娩室に響きわたった。歌うたいの母によく似た、芯のある伸びやかな泣き声だった。
身長180cm。体重72kg。双子座のA型で、色白。年齢は私の6つ上の27歳。つい最近、愛知から長野へ帰ってきた。肩まで伸びたさらさらの黒髪をなびかせながら、派遣会社が用意した白いママチャリをこいでいる。16のときから鉄筋工として長いこと働いていたせいか、ガタイがいい。でもマッチョってわけじゃない。マッチョと細マッチョのちょうど真ん中くらいの身体つき、といったところだ。そして衝撃的なことに、なぜだか眉毛が全然ない。高校入学と同時に眉を剃って以来、現在まで一度も生やしたことがないらしい。それ元カノの親に会うときとかどうしてたの、と聞くと、
「いやあ、眉、高校辞めたとき教室に忘れてきちゃって」
と、いちいち正直に答えていたそうだ。アホか。
歴代元カノの両親全員に交際を断固として反対されたMZは、私といっしょで、昔から勉強にはまったく興味がもてなかった。だから高校受験はしないつもりだった。でも中3の冬のある日、おばあちゃんに、頼むから進学してちょうだい、とお願いされた。
「え。無理」
あっさりそう答えると、どこの高校でもいいから、合格したら100万あげるから、と文字どおり泣きつかれた(どうもMZの実家は南信の名家らしい)。そんなこんなで、しぶしぶ底辺の高校へ進学。無事に100万円ゲットして、速攻で退学。そして両眉を教室へ置き去りにし、地元を飛び出した。漫画で読んだ武士みたいに、雲のように生きたかった。
そんなMZと私が出会ったのは、職場の工場だ。
私は今、ライン作業員として働いている。時給1250円の派遣契約。夕方5時半から深夜2時15分まで、ずっと立ちっぱで、ただ黙々と電動ドライバーを打っている。左から流れてくる製品に部品を置き、ビスを14本打って、右へ流す。一日の生産目標は170台。だから私は一晩でビスを合計……あれ、何本打ってるんだろう? 苦手なんだよね、計算。だいたい勉強なんかしなくたって金は稼げるし。中卒上等だし。
MZや私と同じように、最終学歴は中卒という人が職場にはたくさんいる。親子で中卒って人たちもいて、その中の一人は10代のころにシンナーの吸い過ぎで失った前歯をにっこり笑いながら自慢したりしている。日本語がカタコトのフィリピン人や中国人、ブラジル人なんかも働いている。そういう外国人に比べると、日本人のほうがよっぽど簡単にサボるのだから呆れてしまう。
そんな雑多で多国籍な職場の中にあって、MZはズバ抜けて仕事ができる。とにかく器用で、作業が速い。そして物覚えもいい。作業内容を1回見て、それを自分で3回やると、内容を全部ぱきっと覚えてしまう。で、忘れない。私もMZと同じくらいの速さで作業を終わらせる自信はあるけど、記憶力はとてもかなわない。記憶力もそうだけど、彼の場合、集中力がさらにすごい。本気出して勉強したら高認なんて簡単に取れちゃうだろうなってくらいすごい。あれだ、まさにイッシンフランってやつだ。鉄筋工時代、親方にもよく褒められたらしい。お前その集中力もったいねえよ、世の中資格だぞ資格、高認取ったら高卒として認められて給料上がるんだから取っちまえ。そう何度も説得された。でもMZは、その度さらりと断った。
「自分、高校辞めたこと1ミクロンも後悔してないんで」
そんなMZのことが、近ごろ私はどうも気になって仕方ないのだ。こないだまで付き合っていた元カレ(フィリピン人と日本人のハーフ。浮気性)のほうがイケメン度は高いけど、人間やっぱ顔じゃないな、と、近ごろの私は思うのだ。ひたすらビスを打ちまくりながら。眉? 眉なんかなくたって、ま、いいじゃないか。社会人としてはだいぶズレてるだろうけど、それが一体なんだというのか。肝心かなめのMZはといえば、今夜も遅刻だ。どうせまたパチンコに集中しすぎて時間を忘れているのだろう。彼はその性格あの軽さと、やたら仕事ができるという点で、多少の遅刻なら目をつぶってもらえるキャラなのだ。それで万が一クビになったとしたって、MZは気にもしないだろう。眉のない顔を爽快にゆるませて、さらりと笑いながら、
「あ、そうすか。じゃ、次は京都にでも稼ぎに行くっす。パチンコ出るかなー」
とか言い残し、雲みたいに自由に流れていくのだろう。あの白いママチャリをこいで。